……ところが。
慣れないことだから「何を書いたものやら」と完全に手が止まってしまった(恥)
そうだ、「ネットは新聞を殺すのかblog」の湯川鶴章氏(時事通信の記者さん)に、エントリーを読んだ感想文を送り付けて、勉強させていただこうっと思ったのです(勝手ですみません)
さて、湯川さんは「参加型に対する疑問:既存メディアの今後の役割」というエントリーで、
> ブログは感想、解説ばかりで、一次情報が少なすぎる。一次情報の多さでは、既存メディアの方が圧倒的に上という意見もよく耳にする。
と書いていらっしゃいます。
そして、既存のマスメディアは一次情報の発信者の役割を担い続け、情報の解釈はネットなどを駆使する「市民」(脇道にそれますが、僕はこの「市民」という言葉があまり好きではありません。どうもマスコミと個人が対立するもののような印象を受けてしまい)が担うのでは? と予測していらっしゃいます。少しこれに感想を(あわよくば意見をいただけると嬉しいなぁと)。
まず、一次情報が少なすぎるとの見方ですが、社会派ネタはその通りだと思います。優れた社会派と認定されたブログ群を拝見しても、どこかのメディアのニュースを引っ張って感想を加えているものが目立ちますし(あ、鋭い感想を述べたサイトですので大いに勉強になっています、念のため)。
■感想だけで「ジャーナリズム」といえますか?
ただ、後段の湯川さんの予測は、もう少し深く考察を加えてもいいように思いました。 湯川さんが日頃よく書かれている「参加型ジャーナリズム」を目指すなら、「市民」側は感想を寄せるだけでなくて、もっと一次情報の発信者にもならないといけないんじゃないかなぁ、と僕は思うのです。
なぜなら、メディアがわざと情報を隠したら「市民」は感想を述べようがなくなってしまうから。逆に意図的に特定の情報を流された場合も、感想が狂います。実際、いいか悪いかは別にして、メディアが「自粛」の名の基に一斉に報道しないケースは存在していますよね?
だから量や分野は多くなくても構わないけれど、既存のメディアが報道しない情報を、「市民」がある程度定期的に発信できてこそ「参加型ジャーナリズム」の実現と言えると思うのです。
■社会派ネタを発信する敷居って高いよなあ
ひるがえって現状のブログは、一次情報の発信者の役割をどれだけ果たしているでしょうか。少なくとも、湯川さんが主に関心を寄せていらっしゃる社会的な分野では、前述の通りまだまだのように思います。今後すぐに動向が変わるかという点も……僕にはなかなかそうは思えません。
僕はこのブログで、なるべくその場で確かめた情報を書き続けようと心がけています(いばってもしょうがない話ですが)。といっても無名の個人が継続的に情報を集め、一次情報を発信できるテーマってどうしても限られる。東京のカレー屋さんめぐりといった無難なテーマに落ち着くわけです(もちろん、テーマ選びの最たる理由はカレーが好きだからなんですが)。やっぱり社会派のテーマは難しそう。
このあたりの敷居の高さがどうやったら下がるのかという点について、湯川さんの今後のエントリーでご見解を示してくださると嬉しいなぁと、平凡な個人は思った次第です。
長文失礼しました。
3月24日追記:
R30さんが「一次情報の時代じゃねえ」とも誤読しかねないエントリーを書いていらっしゃいました(いや、R30さんはあくまで可能性を論じられたのですが)。直接論じたものではないけれど、このエントリーをトラックバックさせていただきます。
確かに一次情報の強度は下がっていると思います。しかし、足を使って情報を集める機能がネット側にしっかりと担保されないうちは、このエントリー中に述べたとおり、メディアが報じないかぎり「何も起こっていない」ことになりかねません。ネットで海外メディアを並行して閲覧すればいいのかもしれませんが、それができるのは一部の優秀な頭脳の持ち主でしょう。少なくとも僕には難しい。
今のマスコミが有効に機能しているかという議論はあるとして、適度に加工した一次情報の優位性は当面は変わらないと思います。
タグ:メディア論(笑)
たあぼうさんのおっしゃるように、多くのサイトはネットなどでネタを引っ張り、自慢げに自分の意見として書くところが多く、ちょっと引いてしまいます。(もちろんそうでないところもありますが)
市民の一次情報の発信量が少ないのは、確かに当然のことかもしれません。正確な一次情報を書くのって、面倒なものです(笑)。ブログを読んでいる側としては、情報がきっちり載っているほうがありがたいんですけどね。
独り言に近い話におつきあいいただき、ありがとうございます。
やっぱり足を使って情報を集めるのが一番大変で面倒くさいですよね。さらにそれを書き起こすのがまた面倒くさい(笑) 適正な報酬(お金に限らず)がもらえるか、趣味の話でもないとやっていられない。
一部マスコミの「良質な情報を提供し続けられるのはプロたるマスコミだけ」という主張には閉口してしまいますが、足を使って情報を集める作業を軽視し、「マスコミはさよなら。参加型ジャーナリズムだ! ブログ万歳!」とやってしまうネットの主張も違和感がぬぐえません。
それでこんなエントリーを書いてしまいました。
まあ、熱く語っている方々はこんなところでつぶやいていても読んでくれないわけですが (^_^;)
でも、そもそも一次情報と二次情報は相互補完関係にあるし、実はそれほど厳密に分けられないものだからそんなにピリピリしなくてもいいのに・・・って思ったりします。
(どちら側も余裕が無くなっている証拠かな?)
サイト運営者の立場だと、一次情報と二次情報に対して自分に合ったバランスを取っていくっていうのが続ける上で大切になるのかもしれません。
たとえば僕のサイトは二次情報の読書日記からはじまって、一次情報の用語集やコラムを増やしてきています。
(「まろまろ読書日記」から「まろまろ記」に名称変更もおこないました)
逆に一次情報からはじまって二次情報を増やすサイトもあると思います。
・・・ってこんな話しだすとキリが無さそうですね(^^;
今度カレーを食べながら「真剣二十代しゃべりば〜WEBマスターは語る〜」やっちゃいましょうか?
真剣はつらいです (^_^;)
気楽に、それとできれば世代も20代と絞らずにお話しできるのがいいなぁ(笑)
> どちら側も余裕が無くなっている証拠かな?
マスコミ側はたぶんその通りでしょう。
苦労して集めた情報は、瞬く間にネットなどを通じて無料で流れ、集めた功績はすぐに忘れ去られる。でも、ろくに情報を集めず主張に重きを置けば、すぐにボロが出て叩かれる。結果、部数・視聴率などの漸減(急減かも)に歯止めがかからない。仏ル・モンドなどが典型例です。
で、良識はあっても抜本的な対策が浮かばないマスコミ人が、「これって“死に至る病”(copyright:キルケゴール)か?」と危機感を抱いている。それが時折ヒステリックな反応となって現れると。
一方、ブログ側はどうですかね。
余裕がないというより、ITバブルのころ盛んだったニュー・エコノミー論のスケールを一回りくらい小さくして、焼き直している印象を受けます。上記エントリーで取り上げた湯川さんやR30さん、あるいはGLOCOMの人たちの議論などを拝見した限りですと。
あの範囲にとどまるなら、参加型ジャーナリズムとやらは夢想に終わるんじゃないかなぁ。政治スタンスが左寄り(あ、教条主義的な人たちとは一線を画しているつもりです念のため)の僕が、こんなこというのはつらいのですが (^_^;)
むしろ、らぶナベさんのようにWebで色々な試みを実践されている方々に注目し、彼らがいまネットで何をしようとしているかを観察した方が、「次」を考えるにはよっぽど参考になりますよ。
安全な場所から見下したような匂いがプンプンして、研究でもよくケンカしてるところです。
自分が恥をかき、晒され、叩かれながらでないと転換期の考察はできないんではないかと思うんですがね。
(「心のフィールドワーカー」と呼ばれています)
…いかん、いかん!
やっぱり話が止まらなくなりそうですね。
では、「お気楽 無世代まろり場」をやりましょうか?
カレーでも食べながら(^_-)
「心のフィールドワーカー」、らぶナベさんのためにあるような言葉ですね。
「お気楽 無世代まろり場」楽しみにしています。
例のごとく会場となるカレー屋さんの選定はカレーマスターにお任せします。